chronic life

I can (not) have relations.

N・Aの扉/飛鳥部勝則/新潟日報事業社

読了。初飛鳥部。今日は一つ、わがままな、或いはちょっと偉そうなことを書いてみようと想う。「お前はいつも偉そうじゃないか」と云う苦情は受け付けない。何故なら、そんなことは自分が一番よく判っているからだ。判っている苦情は受け付けないと云う時点で、かなり偉そうな訳だが。
以下の文章は、私がこの小説を読みながら、途中で想い付いて携帯にメモしていた文章である。出先だったので、それくらいしか記録する媒体がなかったのだ。文字数制限が500文字で、少し面倒な想いもしたが。他にも幾つか、メモした事柄があったもので。それはまた、別のお話。

本との出逢いとは、即ち作家との出逢いである。そしてそれは必ずしも、初めて読む作家である必要はない。その作家の肝、或いは自分とのシンクロニシティに触れた時こそが、その作家との真の出逢いの瞬間である。それを今、私は正にしている最中なのだ。それは勿論、飛鳥部勝則との出逢いである。
私はこの作家を、或いは今読んでいる『N・Aの扉』と云う小説を、殊更他人に薦めるつもりは毛頭ない。「殊更」と「毛頭」を重ねるのは、どうも座りが悪いような気もするが、そう書きたかったのだから、今の気分を尊重することにしよう。確かに、人に薦め易いような内容ではない。面白いと感じるかどうかは、かなり読者の資質によると想う。しかし、私はこの作品を偏愛する。飛鳥部勝則の小説は、残らず読もうと想ったほどに。誰かの何かを読んだ時の感覚に近いような気もするのだが、それが誰の何と云う作だったかは、どうも想い出せない。深く濃い、霧の向こうに隠れているようだ。凡てを乳白色に染め上げてしまう、闇のような霧である。

いつの間にか、携帯にメモしていた文章から、読み終わった後にPCに向かって書いている今の文章に移ってしまっていた。気分がノッていたようだ。敢えて書き足すことがあるとすれば、個人的には『本格』と云うものにそんなに想い入れはないつもりだったのだが、「俺ってこんなに『本格』好きなんじゃん!」と気付かされたと云うことだろうか。この作品が『本格』かどうかは判らない。ミステリーかどうかも怪しいものだ。しかし、本作には『本格』に対する篤い愛情が込められている。「愛情」と云うのも違う気がしないでもない。これはある、『本格』と云う霊に取り憑かれた男の描き出した、孤独な自画像なのかも知れない。扉は、そこに待っている。

付記

はまぞう*1の書籍データでは、出版社が「新潟日報事業所」となっているが、奥付では「新潟日報事業社」となっている。もしかしたら名前が変わったのかも知れないが、私が調べた限りでは「〜事業社」の方が正しいようなので、見出しにはそちらを記しておく。

N・Aの扉

N・Aの扉