掌をじっと眺めていた。手相が見える――が、読める訳ではない。私にそのような素養はない。占いそのものを凡て信じていないと云う訳ではないが、積極的に肯定しようと云う気も、況してや自分でやってみようと想う筈もない。筈もないと云うのは、あまりに強い主観でしかないが。
布団の上で色々と訳の判らないことをフミャフミャと考えていた。まるで中学生か高校生。いや、この両者には何だか豪い隔たりのようなものがあるらしいが、私に云わせれば(私にとっては)似たようなもので、それはつまり地続きであって、昨日と今日、今日と明日のようなものなのだ。勿論、それの連続で月日は流れていくのだが。
「紫の鏡」について私にどうこう云われても、どうしようもない。アレは私の兄の問題であって、私自身には全く何の関係もないのだから。確かに、私も一度だけアレを覗いたことがあった。しかし、私が見た時にはその鈍い光は全く感じることが出来ず、ただの紫色の丸い板としか想えなかった。
ヴィデオデッキのデジタル表示が、今の時刻を知らせてくれる。しかし、そんなことはあまり意味がない。今の私にとって、細かい時間など些事を越えてどうでもいいことだからだ。一体何を書きたかったのか、自分でも完全に見失っているのは自覚がある。しかし、だからどうした? 所詮、凡てのフィクションはメタ・フィクションでしか有り得ないではないか。書くと云うことを意識的に行えば、そこには必ず読み手の存在を意識せざるを得ず、そうすれば現実との接点は必ず何処かにある筈なのだ。とか何とか。
こんなことが書きたかった訳でないことだけは確かだ。さて、どうしたものか……。