chronic life

地下室の屋根裏部屋で

桜庭一樹『桜庭一樹読書日記 少年になり、本を買うのだ。』東京創元社

正直、僕は桜庭さんのあまりいい読者ではないと想うのだけれど、それでもいい友達にはなれそうな気がした。いや、「是非、友達になりたいと想った」と云うのが、より正しい云い回しかも知れない。そんな素晴らしい読書日記。以下、とりわけ気に入った箇所の引用と、それについてのコメントを少しだけ。

 CDを買うたびに必ず思うのが、自分の音楽の趣味がふっつうだなぁ、ということで、べつに悪いことじゃないんだけど、中学生のころの全能感の滓がどこかに残ってるのか、なんとなく、毎回、ふっつうの自分にがっかりする。きっともっとずっとマニアックな人でいてほしいのだろう。大人になった、自分という女性に。そろそろ、いい加減、そういう自分を許していいころなのになぁ。(p.18)

音楽に限らず、本や映画なんかについても、僕は同じような想いを抱いてしまう瞬間が結構ある。また、この文章の前後で言及されているのが東京事変の『大人』と云うのが、僕に止めを刺してしまう。参りました。

 一編目「燃える薔薇」は、普通である。生意気にも、ちょっとあなどって、ふぅーんと思って読み進める。ところが表題作である二編目が、大傑作である。グラグラッと目眩がする。でも、依怙地になってまだ、あなどる。たまたまいいのが書けたのかも、などと思う。ところが三編目「若い沙漠」もまた、傑作である。吐き気がしてくる。しかたなく一回、本を閉じる。どうしたらいいかわからない。これはすごい……。(p.147)

野呂邦暢『愛についてのデッサン』*1に関する感想なのだが、同書を読んだ時、僕もこれと殆ど同じ状況に陥ってしまった。吐き気がするほどの傑作になど、人はそうそう出合えるものではない。もっと、もっと多くの人に読まれて欲しい一冊である。

 原稿の中の時間と人間がすべてになって、自分が消える。作家は小説の影に過ぎない。わたし自身はもうどこにも存在しない。(p.241)

 重たい原稿は、書いたことでもっと重たくなって、それは、誰かに読まれることでようやく作家から離れる気がする。もしかしてわたしが今日も元気でいるのは、たとえば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とかを、今日も誰かがどこかで読んでくれているからかもしれない、と、ちょっとだけ思う。(p.243)

この二箇所は、創作者としての桜庭一樹について、とても考えさせられたところである。いや、或いは「創作そのもの」についてかも知れない。「読書日記」なので、本を買ったり読んだりしたことに関するところも非常に面白いのだけれど、やはり創作について書かれているところも凄くいいと想う。新作*2が楽しみで仕方がない。

*1:

愛についてのデッサン――佐古啓介の旅 (大人の本棚)

愛についてのデッサン――佐古啓介の旅 (大人の本棚)

*2:特に『ミステリ・フロンティア殺人事件―名探偵編集K島登場―』