chronic life

地下室の屋根裏部屋で

エンジン/第八回

次郎が泣いたよ。僕も、別に哀しかったら泣けばいいと想う。美冴のように「泣いてもしょうがない」と云う向きもあるでしょうが、こっちから云わせれば逆に「我慢したってしょうがない」と想う訳ですよ。泣きたい時に泣くのを我慢したって、それこそどうなる訳でもないんだから、想うままに泣けばいいんですよ。それと、次郎がずっと帽子を被っていた意味が、漸くあったような気がする。
今回は殆ど全篇に渡って、閉園に伴ってバラバラになる子供達を、次郎があのバスで受け入れ先の施設に送って回るシーンが展開されていた。その中で、子供達との別れが淡々と、実に丁寧に描かれていて、仮に今回初めてこのドラマを観た人にでも、それぞれの子供達のキャラが直ぐに飲み込めるような作りになっていたと想う。特に葵は、第五回で見せたいい女っぷりが更に板に付いていて、あのシーンに限って云えば、あの木村拓哉さえ喰っていたと云っても過言ではあるまい。
俊太が、俊太が――――! しかも、追い掛けてきた理由が、「次いつ逢えるのか、次郎がちゃんと答えてくれなかったから」ですよ。何だよもう。可愛いなぁ。あぁ、あいくるし(ry。
次郎、今こそ「契約金2,000万円」に飛び付いて、風の丘ホームに資金援助するのです。って、それじゃ駄目か*1。じゃあ、どうするんの?

*1:あすなろ白書』取手君より

カンニング・竹山が初著書イベントで“結婚宣言”

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200506/gt2005060604.html
20人くらいいる、僕の人生のお手本の一人なので*1、一応。交際歴と芸歴が殆ど同じと云うのが……あ、この先考えてなかった*2。そんなことより細木数子は、まず何より自分の名前を改名した方がいいと想っているのは、きっと僕だけじゃない筈だ。
今夜は久し振りに『TFP2』観なきゃ。

*1:船頭多くして船山へ登る

*2:はい、ジャンガジャンガ……

退屈な読書/高橋源一郎/朝日新聞社

読了。表紙がしりあがり寿だー。そんなことは聞いてないって? 初高橋源一郎。厳密に云うと、新聞連載とかを飛び飛びで読んでいたことはあるので、文章に触れるの自体が全くの初めてと云う訳ではないけれど*1、書籍として纏まっているものを読んだのはこれが初めて。ところで、公式サイトの連載小説ってどうなってるんでしょうか? 何かご存知の方は教えて下さい。
エッセイのような書評のような、何とも云えない不思議な味わい。巻末の「あとがき」には、「本の事件簿第二弾」と書いてある。第二弾から読んでしまった。松本人志で云えば、いきなり『松本』から読んでしまったようなものだ*2。しかし、これを最初に読んだと云うのは、入り口としては結構良かったような気もしている。単純に読み易かったし、勿論面白かった。本文で触れられている作品は、正直読んだことのないものの方が多かったけれど、その分読書欲はかなり刺激されて、「よし、これは読もう」と想った作品が、かなりの数に上った。タイトルと作者名を、メモったりしたし。
しかし、とにもかくにも高橋源一郎本人の小説が、一番読みたくなったのは云うまでもない。長篇は、想っていたよりもそんなに書いていないようなので*3、地道に追って行こうかと想っている。それにしても、全然「退屈」じゃないじゃないですか。書名に偽りありですよ、タカハシさん。

退屈な読書

退屈な読書

*1:公式サイトの日記も読んでるし

*2:そのたとえはどうかと想うが

*3:それが良いことか悪いことかはさておいて

N・Aの扉/飛鳥部勝則/新潟日報事業社

読了。初飛鳥部。今日は一つ、わがままな、或いはちょっと偉そうなことを書いてみようと想う。「お前はいつも偉そうじゃないか」と云う苦情は受け付けない。何故なら、そんなことは自分が一番よく判っているからだ。判っている苦情は受け付けないと云う時点で、かなり偉そうな訳だが。
以下の文章は、私がこの小説を読みながら、途中で想い付いて携帯にメモしていた文章である。出先だったので、それくらいしか記録する媒体がなかったのだ。文字数制限が500文字で、少し面倒な想いもしたが。他にも幾つか、メモした事柄があったもので。それはまた、別のお話。

本との出逢いとは、即ち作家との出逢いである。そしてそれは必ずしも、初めて読む作家である必要はない。その作家の肝、或いは自分とのシンクロニシティに触れた時こそが、その作家との真の出逢いの瞬間である。それを今、私は正にしている最中なのだ。それは勿論、飛鳥部勝則との出逢いである。
私はこの作家を、或いは今読んでいる『N・Aの扉』と云う小説を、殊更他人に薦めるつもりは毛頭ない。「殊更」と「毛頭」を重ねるのは、どうも座りが悪いような気もするが、そう書きたかったのだから、今の気分を尊重することにしよう。確かに、人に薦め易いような内容ではない。面白いと感じるかどうかは、かなり読者の資質によると想う。しかし、私はこの作品を偏愛する。飛鳥部勝則の小説は、残らず読もうと想ったほどに。誰かの何かを読んだ時の感覚に近いような気もするのだが、それが誰の何と云う作だったかは、どうも想い出せない。深く濃い、霧の向こうに隠れているようだ。凡てを乳白色に染め上げてしまう、闇のような霧である。

いつの間にか、携帯にメモしていた文章から、読み終わった後にPCに向かって書いている今の文章に移ってしまっていた。気分がノッていたようだ。敢えて書き足すことがあるとすれば、個人的には『本格』と云うものにそんなに想い入れはないつもりだったのだが、「俺ってこんなに『本格』好きなんじゃん!」と気付かされたと云うことだろうか。この作品が『本格』かどうかは判らない。ミステリーかどうかも怪しいものだ。しかし、本作には『本格』に対する篤い愛情が込められている。「愛情」と云うのも違う気がしないでもない。これはある、『本格』と云う霊に取り憑かれた男の描き出した、孤独な自画像なのかも知れない。扉は、そこに待っている。

付記

はまぞう*1の書籍データでは、出版社が「新潟日報事業所」となっているが、奥付では「新潟日報事業社」となっている。もしかしたら名前が変わったのかも知れないが、私が調べた限りでは「〜事業社」の方が正しいようなので、見出しにはそちらを記しておく。

N・Aの扉

N・Aの扉