chronic life

I can (not) have relations.

文藝 春

かなり前に買って、殆どそのまま放置していた『文藝』の今年春号を読む。行定勲特集だ。彼の描く死は、何時も彼自身が体感した、身近な死を想起させる。それは又、自分自身にとっての身近な死をも想起させる。自分自身の死は一度きりのもので、追体験すること等出来ない。しかし、身の回りの人間が死ぬことは、そんなに頻繁ではないかも知れないけれど、現実に起こることである。僕は未だ、無いけど。陳腐な表現をすれば、死とは残された人こそが受け取り、受け容れ、作り出していくものではないだろうか。
自らが死の当事者になってしまえば、それについて何か想ったり考えたりすることは出来ない。勿論、後になってからそれを客観的事実として受け容れるコト等決して出来ない。死んだら、終わりだ。だが、身近な――或いは眼に見える範囲の他人の死に直面した後、それでも人は生きていかなければならないし、生きていくものだ。だからある人はその死に特別な意味を求めたり、又ある人はその死に何時迄も浸っていたり、又別の誰かは、その死を意図的に全く無視してみたりする。そんなことが出来るのは、当たり前の話だが、それが他人の死であるからだ。血縁とか親族とかそういう意味ではない。自分以外の凡ての他人、と云う意味だ。人が知っている――と想っているのは凡て、他人の死でしかない。自分の死を死って尚、生き続けている人を、寡聞にして僕は未だ知らない。
じゃあ、人が死ぬってことは一体どういうことなんだろう? 自分が死ぬって云うのは、どういうことなんだろう?
――自分の中でも巧く消化出来ていなくて、どうにも日本語が変です。もう一寸ちゃんとまともに、自分の気持ちを文章で表せられるようになりたいです。