その女は、穂群紡(ほむら・つむぐ)と名乗った。相手が若い女だと油断してか、私はいとも簡単に扉の鍵を開けてしまった。ドアスコープ越しに見た、彼女の眼力に気圧されてしまったと云うのが、正直な処だが。
その女――紡は、勝手知ったる我が家と云わんばかりに、ドカドカと部屋に入り込み、一枚しか無い座布団をちゃっかり自分の尻の下に敷いた。真逆、誰かが輪姦されているヴィデオを持って来た訳でもあるまいに――。
「何そこで突っ立ってんの? あんたもこっち来て座んなさいよ」
「あ、あぁ……」
是ではどちらがこの部屋の住人か判ったものでは無い。しかしまぁ、そこを深く追求するのは止めておこう。私は取り敢えず、何時ものように布団の上に座ることにした。
「あたしもそんなに此処に長居する積もり無いから、早速本題に入るわね」
そう云って紡が鞄から取り出したのは、何やらピンク色の髪をした少女(幼女?)が表紙の、A5版程の本――冊子だった。私の知識が確かならば、恐らく是は「同人誌」と呼ばれるものだろう。表紙にはカラフルな文字で「もえかん(仮)」とも書かれていた。
「是が、何か?」
いきなりこんなものを見せられて、どんな反応をしろと云うのか。申し訳ないが私には、ロリコンの気は無いのである。私が好きなのは、眼鏡と白衣と浴衣だ。
「――やっぱ憶えてないんだ、是のことも」
は? 何を云っているんだろう、この女は。
「じゃあ一寸、中も見てみてよ。特に後ろの方にある『おぎゃ鴉。』って奴」
何だか善く判らないまま、一先ず私は云われた通りにその同人誌を手に取り、頁を捲った。確かに119頁から『おぎゃ鴉。』と云う作品が掲載されている。作者は――溝口要皓。私だ! この流れで、唯の同姓同名とはとても想えない。しかもこの「要皓」と云う名は、私が勝手に当てて名乗っていたものだ。他の誰かと被る可能性等、殆ど皆無に等しい。それよりも、私が記憶を失っている二箇月の間に書いたものが、此処に載っていると仮定した方が、余程通りが良いではないか。
「こ、是――若しかして」
「まぁ、取り敢えずそれあげるから、読んでみれば。今日はそれを渡したかっただけだから、是で」
紡は鞄を手に取り立ち上がると、必要以上に尻の埃を叩いている。失礼な奴だ。そして扉の処迄来ると、唯々茫然としていた私を振り返り、捨て台詞のようにこう云った。
「明日は一寸連れて行きたい処があるから、又迎えに来るわ。どうせ何も予定無くて、一日中部屋にいるんでしょう?」
返す言葉も無かった。しかし、是では余りに無責任ではあるまいか。何かを云い返す間も無く、紡は扉の向こうに消えた。一陣の風が、通り抜けた後のようだった。
処で、明日ってどっちだ? 17日か、それとも18日?
是が9月17日、午前零時過ぎの遣り取りである。