chronic life

地下室の屋根裏部屋で

クロスレビューリレー:読書/『セラフィムの夜』/花村萬月

――自分とは一体何者なのか。
この小説を読む時、僕は何時もそんな単純で奥の深い疑問の闇に、否応無しに飲み込まれてしまう。人は常に、二つ――或いはそれ以上のものの境界線上――ボーダーラインに立っている存在なのだ。だからこそ人間は、孤独を選ばざるを得ないのだろう。本書のラストはふと、そんなことを想わせる――。
僕が初めて本書を手に取ったのは、未だ中学生の時だった。地元の図書館でこの本(当時は未だハードカヴァー)を手に取った時、僕の触手を先ず動かしたのは、そのタイトルに当時僕が激しく興味を惹かれていたキリスト教的天使、しかも自分が一番美しいと夢想していた熾天使――セラフィムの名を見付けたからだった。そしてその先に拡がる、未知なる性と暴力への強い関心と欲望を見出したからだった。
期待通り、この小説は性と暴力を扱っている。僕は興奮した。様々な体液の色彩に彩られた、境界に生きる人間の魂の物語。それがこの小説だった。余りネタバレになるようなことは書きたくなかったのだが、主人公の涼子は男と女と云う、二つの性の狭間を彷徨っている。そしてその相手となる山本は、日本と韓国(朝鮮)と云う二つの国と自らを流れる血に、翻弄されている。後半、その山本が自らの母方の一族の住むソウルへ向かう様を今回改めて読み乍ら、僕は不思議と『うたばん』の企画で高知から韓国迄マラソンをした、あのソニンのことが頭を過ぎった。彼女も、実は山本と同じことをしようとしていたのかも知れない。勿論、彼女の場合は自発的ではないが、それでも彼女は辿り着いた。そして、その先に何かを見出したのだろう。僕には、判らない。
話が逸れてしまった。想えば花村萬月と云う作家は特に初期、執拗に性と暴力を描写し続けていた。それは、自らの原罪に対する報いであるかのように、先鋭的で痛々しい程。勿論今作も、その流れの中の一つと云うことになるのだろう。前述したようにこの小説は、性と暴力に溢れているのだから。しかし、他の作品がそうであるように――或いはそれ以上に――この作品はエンターテイメントと云う枠組みを突き破り、軽やかに純文学に侵蝕している。過剰なるエンターテイメント性が、丸で足枷のようにぶら下がって見える。勿論、是は誉め言葉だ。私がこの本と同じように愛して止まない、もう一つの花村作品『鬱』では、その様が寧ろ逆転している。純文学が、エンターテイメントを陵辱してるかのように……。
――自分とは一体何者なのか、と最初に問うた。しかし、その言葉は本書の前では、このように変換されなければならないのかも知れない。
――この小説は一体何なのか、と。
勿論、それに答えは無い。読者一人独りが、この物語を受け止めた後、自分自身で導き出すしかないのだ。それは実に孤独な作業だ。しかし、誰もが孤独であると云うことは、誰も独りではないと云うことの裏返しなのだ。だから人は境界に立ち乍らも、価値観と価値観の狭間で揺さ振られ乍らも、その中に希望を見出し、境界線上で孤独を全うするのである。


いや、偉そうな感想ですいません。つい、一寸力が入ってしまいました。何時もの僕らしくありませんね、是は(笑)。

■クロスレヴュー『セラフィムの夜』参加者リスト