chronic life

I can (not) have relations.

生き死にの問題

まぁ普通に、逃げたい。もう、こんな呪縛に囚われるのは懲り懲りだ。それなのにどうして未だ、僕はこんな風に空気を吸っているのか? 誰の為? 何の為? 何時の為? 何処の為?
どうにもこうにも、この押し迫ってくる感覚と云う奴は、決して拭い去ることが出来ない。この前、火曜日の昼に、号泣し乍ら訴えたことは、正真正銘本心なんです。僕は、何も変わらない。それが誰かを傷付けたり、自分自身を貶めていくとしても、無理なものは無理なんだ。
昨日の『バツ彼』の陽平の台詞を聴いていて、片親で子供を産んで育てていって、その先に不幸が待っているのだとしたら、その出産は如何なものか、と云うのはつまり、極論してしまえば、不幸になるのが予め判っているのなら、生まれてくることは無いと云うことか? それなら、今の不幸が永遠に続くのが眼に見えて判っているなら、どうして生きることを続けなくてはいけないのか? 陽平は、不幸だったら生きている価値や意味が無いと云っているのか?
いや、勿論そんな巫山戯た話を、僕だってまともに真剣に受け止めたり考えたりしている訳じゃない。しかし、僕の心にはそういう風に届いてしまったと云うだけの話だ。
「何とかなるかも知れない」なんて台詞が、自分の出来る限りのことをした人だけが使える言葉だ。はなから何もしていない人間が「何とかなるかも知れない」とか云ったって、そんなのは詭弁ですら在り得ない。


僕は、溝口要皓を殺したことで、もう一度零から(マイナスからだったかも知れないが)始めようと想っていた。色んなことを、凡てのことを。しかし、溝口とザ★ボンは同じ躰であって一つの心で、そこにあるのは唯名前の差異、レッテル・ラベルの違いだけである。シェークスピアの言を引く迄も無く、幾ら名前が変わった処で、そのものの本質には全く影響は無い。それは勿論、良くも悪くも。
薔薇がどんな名前であっても美しく馨しいように、僕はどんな名前であっても、仮令名前が無かったとしても、その弱さや愚かさに変わりはない。それが判っただけでも、少しは収獲と想おう。


それでは皆さん、又逢う日迄――。