chronic life

地下室の屋根裏部屋で

日曜休刊

そう云えば最近、僕は苗字で呼ばれることが殆どない。それは勿論「丼原」と云う奴ではなくて、本名の苗字と云う意味だ。今日図書館で、閉鎖書庫に入っている本を探して呼び出して貰う時に、久し振りに苗字を名乗って苗字で呼ばれた。その時に気付いたのだ。
最近逢ったり電話したりして、僕がちゃんと話をする相手と云うのは、僕のことを下の名前で呼ぶかハンドルで呼ぶか、或いはハンドルから転じた妙な呼び名で呼ぶかで、そこに苗字が出て来る余地はない。僕は遂に今、ずっと忌み嫌っていた名前から、ある意味解放されたのだ。嬉しい限りだ。
僕が苗字によって縛り付けられていると感じていたのは「血」と「家」で、僕はその両方が好きではなかった。だから、苗字で呼ばれることもあまり好ましいとは想っていなかった。苗字そのものが嫌いだったと云ってもいい。しかし、友人知人に「苗字で呼ばないでくれ」と積極的に頼むのも気が引けて、ダラダラと苗字で呼ばれていた。
だが、今の状況は何だ。まんまと僕の想い通りになっているではないか。これが天恵と云う奴か。いや、恐らく違う。こんなのはただの偶然の産物だ。僕が実社会との接点を失ってしまった、その弊害の一つでしかない。弊害? 弊害とはまた面妖な。これは僕の精神にとって、ただ純粋な幸福ではなかろうか。僕以外の一体誰に、それを否定することが出来るだろうか。