chronic life

I can (not) have relations.

タイトルについて考えてみる

さっき調べたら、《はてなダイアリー》と云う日記のタイトルは無かった。勿論、このフレーズを含んだタイトルなら、山のようにあったけれど。
で、どうして僕が余りにも頻繁に日記のタイトルを変えるのかと云うと、それは単純に云って、飽きるから――では無くて、その時に自分の気分や心境、或いはもっと大袈裟に云ってしまえば、哲学と合わなくなってしまうからなのです。《『世界』の終わり」〜》と付けていた時は、僕にとって今正に此処が、「『世界』の終わり」だったのだけれど、最近はそれも嘘臭く感じるようになってしまって、画面を見ていて少し腹立たしかったから。
僕の場合、ある程度はタイトルを目立つように掲げたいので、文言自体が鬱陶しくなると変えざるを得ない。
一時期、ほんの一日だけ、この日記は《オランウータン観察日記》と名乗っていた時期があって、そのオランウータンとは勿論僕のことなのだけれど、そんなことを云うのは、愛しいあの人位で、他の人には判らないだろうと想う。それに、他のサイトで言及されたり、剰えリンクやリファを貰った時に、《オランウータン観察日記》では、余りにも此処の内容や僕のメンタリティとの落差が激しい気がしたので、敢え無く直ぐにお払い箱になった。
さて、最近は《ミネルヴァの梟は真夜中に飛び〜》っぽいタイトルになっていて、是はそこそこ気に入っている。元々引用の引用、孫引き・曾孫引き・玄孫引きなものを、アンテナのタイトルに使って、結構永らく愛用していたので、多少の愛着もある。
僕にとって、夜――特に真夜中と云うのは、ずっと特別な時間帯で、それは学生時代から、フラフラしている今迄、何年も変わらない事実であり、実感である。僕が何かを想い立ったり、重要な決断をしたり、大切な作業をしているのは、何時も真夜中だったような気がする。気がするだけだが、きっとそれも真実なのだ。だから、僕にとっての『ミネルヴァの梟』は、確かに真夜中に訪れて、そして朝になる前に去って行くのだと想う。何時も、何時も。
さって、《立つ》がいいか《立った》がいいか、又ゆっくり考えるか。もう、今夜は寝るけど。そして僕は、自分が札幌に飛び立つ夢を見る。肺炎なんて断ち切って、君の不安や病を吹き飛ばしに飛び立ちたい。けど、きっとそれは望まれないことなんだと想う。君にとっても、僕にとっても。だから、僕は今日もこの場処から、出来る限りの誠意と愛で、君のことを見守っていようと想う。だから、僕のことは気にしなくて大丈夫だよ。心は何時も、大空と共に――。