chronic life

I can (not) have relations.

網状言論F改/東浩紀・永山薫・斎藤環・伊藤剛・竹熊健太郎・小谷真理

初読時と、何かが変わっているような気がしたので、再読してみることにした。その間に、僕個人に限っても実際に東さんと何度か話す機会に恵まれたり、他の著作に触れたりもしたし、昔よりは多少オタク文化に触れた気もする。それに何より「オタク」を巡る様々な情勢にも、大きな変化があったように想う。
本書では「萌え」と云う言葉が、オタクを語る上で非常に重要な用語として頻出しているが、今――或いはほんの少し前――であれば、きっと俎上に上っていたであろう「セカイ系」と云う単語は、僕の読んだ処一切出て来ない。それはつまり、それだけ「セカイ系」と云う言葉が、此処ほんの1,2年で現れて来た言葉であると云うことだろう。
似非評論家めいたことが書きたい訳では無いので、この言説は余り長引かせたくないのだが、処で僕は「オタク」なのだろうか? それとも、オタクにもなれない落ちこぼれなのだろうか? 或いは、作家や小説をデータベース的に消費すると云う手付きが正に、僕がオタクである確固たる証拠なのかも知れないが……。
追記:東氏は、阪神大震災オウム真理教の一連の事件が起こり、『新世紀エヴァンゲリオン』が始まった1995年以降を、「動物の時代」=「ポストモダン第二期」と呼んでいる。丁度、『エヴァ』が始まった時に碇シンジと同学年(中学二年)だった僕は、正にオタク第三世代直撃で、一個人としての人格形成に大きな影響を与える思春期以降、どっぷりと動物の時代に浸かっている訳だ。だがしかし、もう少し下の世代になると、シニカルさとかラディカルさの部分で、多少の――しかし絶対的な――断絶を感じたりする。
エヴァ』さえ歴史の一つになった以降の時代に青春を送った世代の、新たなクリエイターと云うものを、実は僕も求めているのかも知れない。それは時に、太田克史編集長が「ファウスト賞」で望んでいたことにも通ずるのかも知れない。だからどうしたと云われると、全く何も意味は無いんだけれど、多分綿矢りさとかも結構ボーダーな処で、今高校生・中学生の世代とかは、『エヴァ』本放送の時に一桁歳だった訳で、多分あの熱狂をリアルには体感していないだろう。
と云うか、此処迄書いて今想ったのは、僕のメンタリティにとって、どれだけ『エヴァ』が大きく、光を照らし影を落としたかと云うことで。何だか何を云いたいのか全く判らなくなってきた。メモにもならない、哀しい日記だ――。